葛飾柴又とは
柴又のお土産
柴又観光リンク
柴又帝釈天のご案内
彫刻の寺 柴又帝釈天
葛飾柴又とは
柴又帝釈天のご案内

観光名所としての柴又帝釈天情報はネット上に多々存在します。
ここでは、日蓮宗のお寺としての柴又帝釈天 題経寺について
建造物について簡単にご紹介いたします。
柴又帝釈天の縁起
柴又の帝釈様として親しまれていますが、正しくは経栄山題経寺といい日蓮宗のお寺です。
千葉県の中山の法華経寺第十九世、禅那院日忠上人のお弟子の題経院日栄上人は、葛飾柴又へ寄った際、見事な枝ぶりの松の木を見とめ、近づいてみると松の下に霊泉が涌いていました。
日栄上人は師の日忠上人を開山に仰いでこの地に庵を開きました
これが経栄山題経寺、すなわち柴又帝釈天のはじまりです。
寛永年間(1629)の開山とされています

「御神水」

「瑞龍の松」
柴又帝釈天の縁日は「庚申」の日
柴又帝釈天には日蓮上人が自ら刻んだと伝えられている「帝釈天の板本尊」が安置されていますが、開山間もないある時期、この御本尊の所在が不明でありました。

ところが、第九代の日敬上人の時に、本堂を修理したところ、棟の上からこの御本尊が発見されました。
安永八年(1779)の春、庚申(かのえさる)の日であったことから、柴又帝釈天では庚申の日を縁日と定めています。

当時、江戸の町では庚申信仰が盛んであり、『柴又に帝釈天が庚申の日に出現した』と江戸市中に広まり、柴又の帝釈天として有名になったそうです。

さらに、板本尊が発見されてまもなく、江戸の町に飢饉、疫病が蔓延しました。
「天明の大飢饉」といわれる江戸時代の惨事です。
このとき柴又帝釈天の住職であった日敬上人は板本尊を背負い、「南無妙法蓮華経」と唱えながら江戸の町を歩き、災害や病気で苦しんでいる人々を救済して歩いたそうです。

こういった事で柴又帝釈天は「庶民の寺 」として親しまれ有名になったのでしょう。
近代の『柴又帝釈天』

  柴又帝釈天 二天門
明治29年には帝釈天「二天門」が、江戸期建築の最後の名匠といわれた坂田留吉 棟梁によってつくられました
大正4年には「大客殿」がつくられ(名棟梁 鈴木源次朗)、昭和4年には現在の柴又帝釈天の本堂「帝釈堂」が、同じく坂田留吉棟梁によりつくられました。(設計は林門作)

この帝釈堂の彫刻は、柴又帝釈天の名物になっております、『法華経』の中から選んだ説話をテーマに施されたもので、大正末期から昭和9年にかけて、彫刻は 加藤寅之助、金子光清、木嶋江運、石川信光、横谷光一、石川I銀次朗、加府正一、山本一芳、今関光次、小林直光の10人の彫刻師により制作されました。
製作中、各彫刻師へ渡っていた欅の彫刻材が関東大震災により燃えてしまい、再び良材を全国に求め、発案から15年後にやっと完成したとのことです。
柴又帝釈天に訪れた方を感嘆させる彫刻はこのような経緯を経て完成しました。

      帝釈堂
なお柴又帝釈天 題経寺の中で、一番古いお堂は「釈迦堂」です。
文化・文政期とされているので西暦1800年頃の建造物です。当時の建築様式が見られる貴重な建造物です(帝釈天二天門をくぐり、右手の奥に見えるお堂)
そもそも庚申信仰とは
「庚申」は、干支(えと)の組み合わせで、一日ごとにその干支が当てはめられています。

     十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)
     十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)


これらを甲子、乙丑、丙寅、・・・と 組み合わせると全部で60種類の組み合わせができます。その一つが「庚申」で、「かのえさる」「コウシン」と読みます。
暦に当てはめると、60日ごとに庚申日が訪れます。よって柴又帝釈天の縁日「庚申」も60日ごとです。

庚申信仰、風習について
各地に伝わる『庚申縁起』によると

『人間の体には三尸(さんし)という三匹の虫が住んでいて、庚申の日の夜、人が寝ている間に天に昇って、人々が行った良いこと悪いことを天帝に告げ、その罪科によっては寿命を縮められてしまうという』という話がありました。
それを逃れるには「善をなし悪をやめ、庚申の夜には、香華や百味の飲食を供え、真言を唱えて仏を念じて眠らない。さらに、六度の庚申の夜を無事に勤めれば、願いが成就する。」と。
そこで人々は庚申の夜は寝ないで過ごし、夜が明けると一番でお参り行ったそうです。

江戸時代には日本の各地で「庚申講」という講(グループ、同好会)がつくられ、全国に点在する帝釈天を祀る寺社へお参りし、供養塔や庚申塔を建立しました。現在日本中に「庚申塔」があることから全国規模で活発に行われたのではないでしょうか。

というのが一般的な歴史ですが、
調べてみると、「庚申の夜は、眠らずに、無病息災を願って過ごす」という平安時代の貴族の風習があったようです。
(元来、中国の道教に由来する教えのようです。それが8世紀頃に日本へ伝わり貴族を中心に広まった)
その貴族文化が少しずつ民衆に浸透し始め、江戸時代に一気に全国規模で広まったのではないでしょうか。
他の風習をみても、全国的にインフラの整備がされた江戸時代に、貴族、武家の風習が一気に庶民に広まっています。
たとえば「七五三」の起源は関東の風習であり、起源は平安、室町と諸説がありますが、11月にお祝いする形が全国に広まったのはやはり江戸時代だそうです。
柴又帝釈天境内にある建造物について
建造の歴史
古い記録によると文化文政(1803年~1830年頃)には、小さな山門をくぐると帝釈堂があり、そのお堂の前には瑞龍の松があり、右に祖師堂、左に庫裡が立派に建っていたようです。
ただし明治の初めの頃には相当傷んでおりました。
そこで13代 日貞上人は、先ず帝釈堂の拝殿を建替えしました(明治22年5月 完成)。
14代 日孝上人は明治29年 現在の二天門を完成させ
15代 日担上人は大正 4年 帝釈堂内殿を完成
16代 日済上人は昭和 4年 帝釈堂拝殿、大客殿を完成
         昭和 9年に「法華経説話彫刻」が完成
戦後になり
17代 日滋上人は昭和24年 祖師堂の大改修を行いました。
さらに「これからはお寺も社会的な事業をしなければ」とルンビニー幼稚園を開きます。
昭和30年 大鐘楼堂を完成
昭和40年 大客殿の中庭を大改修し「??渓園(すいけいえん」の完成
昭和48年 庫裡のあった場所に「鳳翔会館(ほうしょう会館)」を完成させました。
(その後、この日滋上人は昭和49年に法主として日蓮宗総本山である身延山久遠寺へ赴きました。まさに日蓮宗のトップ、代表となりました)

そのあとを継がれた現山主(住職)、18代 日翔上人は昭和50年に西側の玉垣(石塀)を完成させ、昭和53年には「御本尊出現二百年記念事業」の一環として祖師堂の屋根の葺き替え、内陣の改装、建物の大改修、拡張を行いました。
昭和57年には南大門を完成させました。
この他 帝釈堂にある法華経説話彫刻の保護なども行いました。

このように柴又帝釈天 題経寺は、年を経るごとに、代を重ねる度毎に、立派なお寺となり、現在私ども檀家はもちろん、柴又の人々の誇りとする存在です。
現在の建物の概観
柴又駅から柴又帝釈天参道を歩いて行くと、突き当たりに二天門が建ち、その門をくぐると正面に帝釈堂、右に祖師堂、その右手前に釈迦堂(開山堂)、祖師堂裏手に大客殿などが建つ。

(以下は 『Wikipedia 柴又帝釈天』 に加筆したものです)

◆ 二天門
柴又帝釈天参道を歩き一番最初に目に入るのはこの二天門です。
明治29年(1896年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。柴又帝釈天の二天像は平安時代の作と思われ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から柴又帝釈天へ寄贈されたものである。

◆ 帝釈堂
柴又帝釈天の現在の本堂。二天門を入った境内正面に位置する。名匠 坂田留吉棟梁により全てケヤキで造られました。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置してあります。この帝釈堂は遠目では目立ちませんが、近づくとまさに彫刻で飾り立てられています。。

◆ 大鐘楼堂
昭和30年に完成した全てケヤキで造られております。
鐘楼堂建築としては、関東では比べるものが無いほどの造りです。 音響は雅楽黄鐘調と言われ、梵鐘研究の権威である青木理学博士から「昭和の銘鐘」と太鼓判を押されたほどのものです。

◆ 祖師堂
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。元はこちらが日蓮宗寺院として柴又帝釈天 題経寺の本来の本堂でした。

◆ 釈迦堂(開山堂)
柴又帝釈天の中では、江戸末期に建立された最古の建築であり、文化文政の建築様式が見られる貴重な建物です。奈良時代作という釈迦如来立像と、開山日栄、中興の祖日敬の木像を安置する。

◆ 大客殿(平成14年 東京都の歴史的建造物)
祖師堂裏に位置する。昭和4年の完成で大正の面影を感じられる建築様式です。芝の二本榎の名匠 鈴木源治郎が材料を厳選して造営したものです。
全てヒノキで造られています。入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を1列に配し、これらの手前には庭に面しガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。
この客殿と同じ時期に帝釈堂も施工していましたので名匠どうしの腕比べでした。

◆ 邃渓園(すいけいえん)
柴又帝釈天の奥庭。大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965年)、関東の造園師ではこの人の右に出る者は居ないと云われた向島の庭師 永井楽山の設計による。大客殿前に広がる池泉式庭園で、立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。