葛飾柴又とは
柴又のお土産
柴又観光リンク
柴又帝釈天のご案内
彫刻の寺 柴又帝釈天
葛飾柴又とは
彫刻の寺 柴又帝釈天

柴又帝釈天は「彫刻の寺」と言われるほど
境内のお堂は所狭しと彫刻で飾られています。
その彫刻についておご紹介したいと思います。
横浜の加藤勘造と 房総の 伊八
柴又帝釈天の二天門は明治29年に建てられました、そこには立派な彫刻が施されていますが、加藤勘造氏やその弟子たちを中心に施行されました。
その中に氏の息子である加藤寅之助氏がおり、後に法華経説話彫刻の一部を仕上げることになります。
また、加藤氏の弟子であった園田正直氏も携わりましたが、この方は帝釈天参道にある「園田神仏具・木彫店」の先々々代です。(現在は三代目 園田正信)

二天門に関わった彫刻師に、有名な「波の伊八」の4代目である「四代伊八・信明」(下記参照)がいます。この四代信明は大変な名人で、この後も柴又帝釈天の彫刻に深く関わります。

柴又帝釈天の二天門は表側を加藤勘造一門、裏側は四代伊八・信明が施した作品であり、関東の彫刻を語る上で欠かせない存在感となっています。
※ 加藤勘造
彫工としての系統は不明ですが、作風は後藤流と言われています。
大変有名な方で、日本画家の橋本雅邦なども友人であったようです。穏やかな方でしたが、ある時橋本雅邦が加藤氏を訪ねて柴又帝釈天に来た際、加藤氏がちょっとトイレに行ってる間に橋本雅邦が下絵に少しだけ手を入れ、トイレから戻りそれを見た加藤氏は大変な怒りようだったそうです。
柴又帝釈天と加藤家の関係は長く、勘造氏に始まり子供である寅之助氏は拝殿と帝釈堂の胴羽目彫刻(法華経説話)を、孫の正春氏は拝殿と渡り廊下の彫刻を施しました、三代にわたる付き合いです。
更に弟子には帝釈天門前の園田神仏具木彫店の園田正直・正信氏がおり柴又帝釈天との縁の深さを感じます。
* 「四代武志伊八・信明」高石仙蔵とは
有名な彫刻師「波の伊八」の四代目であり、大変な名人であったそうですが、柴又帝釈天の彫刻にも四代伊八・信明は関わっております。

帝釈天参道の園田神仏具店の当主であった園田正信氏の証言によると柴又帝釈天の彫刻の中で氏が関わっていないのは「法華経説話彫刻」くらいで、帝釈堂、祖師堂、客殿、水舎など大部分の建物に彫刻を残しているそうです。
この園田正信氏は、四代信明と共に仕事をした園田正直氏の後継ぎであり自身も彫刻師です。
こういった点から柴又帝釈天(特に帝釈堂)を「四代信明 技の博物館」と呼ぶ人もおります。

また、現在彫刻ギャラリーになっている有名な「法華経説話彫刻」(胴羽目彫刻)も、四代信明が「松の枝に猿が遊んでいる」下絵を元に手掛けるはずでした。
(この辺の経緯についてはもう少し調べ、頭の中を整理してから掲載したいと思います。かなり険悪な雰囲気になったという記録もあります。)
彫り始める前の明治41年9月に伝染病で亡くなりました。
結局「法華経説話彫刻」は東京を中心に活躍する10人の少壮の彫刻家に依頼し完成しましたが、もし若死しなければ数多くの名作を残してくれたであろうと悔やまれます。この「四代伊八・信明」という方はそれほどに関東の彫刻界で一目おかれる腕前だったのでしょう。

跡を継いだ 五代伊八・信月も柴又帝釈天で彫刻の仕事をしています、また園田正直氏の跡継ぎである園田正信氏も同じく帝釈天に作品を残しています。
法華経説話彫刻
柴又帝釈天には数多くの木彫がありますが、中でも帝釈堂内陣の外側にあります10枚の胴羽目彫刻は文化財として価値が高いものです。
加藤寅之助氏の発案で東京の少壮彫刻師に依頼、下絵は法華経の「絵解きの図」を参考に 高山英州師が描きました。
なお、この羽目板の上方は十二支と天人、下方は千羽鶴が彫られ、高欄(縁)より下の部分には花鳥、亀が彫られていますが、四代伊八・信明の施工と思われます。

* 写真下の文章は、法華経説話の該当する部分を現代語訳したものですが、望月良晃氏(御前様)の著作から抜粋したので間違い無いと思います。

塔供養図
序品


彫刻 金子光清
今、仏が眉間白毫の光を放たれたのは真実の世界を私共に知らせてくださる前触れに違いない。今こそ皆で一心に手を合わせて待ちましょう。
仏は必ず御法の雨を私共の上に降らして、修行を積む者の心を満足させてくれるであろう。

三車火宅の図
譬喩(比喩)品


彫刻 木嶋江運
この世界には、安心出来る所は何処にも無い。言ってみれば我々は燃えている家の中に住んでいるようなものである。
いろいろな苦しみばかり多くて、まったく恐ろしい限りである。此の世に生まれてもやがて老い、病にかかって死なねばならぬ悩みに、我々はいつも付きまとわれている。このような悩みが炎のように渦巻いて、息むことを知らないのだ。

一雨等潤の図
薬草喩品


彫刻 石川信光
仏の平等なかたよりの無い教えは、天から降る一味の雨と同じである。然し人間の性は千差万別である。だから仏の教えも、人々により受け取り方が異なる。ちょうど、大小様々な草木が、雨の水をいただいてそれぞれに生長するのと同じである。

法師修行の図
普賢菩薩勧発品


彫刻 横山光一
或いは、端座してこの法華経を思念する者があれば、我は(普賢菩薩)は再び、六牙の白象に乗って、その人の前に現れよう。
その時、この法華経を受持し読誦して如説に修行する人は、わが姿を見て歓喜し、大いに自信を得て、益々修行に精進するであろう。

多宝塔出現の図
見宝塔品


彫刻 石川銀次朗
私が仏になってこの世を去った後、天地十方のどこかで法華経を説く仏が現れたら、私を祀るこの塔は、法華経を聴くためにその仏の前に湧き出るであろう。そしてこの仏の教えは、真実であって誠に結構であると褒め讃えよう。

千載給仕の図
提婆達多品


彫刻 加府藤正一
私は、阿私仙という仙人に教えをきく為に、木の実を採ったり、水を汲んだり、薪を拾い集めたり、食事の用意をしたり、ある時は自分の身体の上に腰かけさせたりして、身も心も捧げて、倦まず弛まず努めた。
このようにして仕えて、千年という歳月が流れた。これは、法華経というものを教わりたいばかりに、辛抱して給仕したのである。

竜女成仏の図
提婆達多品


彫刻 山本一芳
時に、龍王の娘は、智慧(智恵)の宝珠をいだいていた。その価値たるや三千大千世界にも匹敵するものであった。
それを今、仏に献上する。仏は、この龍女の献げた宝珠を受けたもうた。

病即消滅の図
薬王菩薩本事品


彫刻 今関光次
この経は、すなわちこれ閻浮堤(全インド)の人の病気の良薬である。もしもある人が病気になり、この経を聞くことができたならば、病気はたちまち消滅して、不老不死となるであろう。

常不軽菩薩受難の図
及び 法華経功徳の図


彫刻 小林直光
一人の比丘を、大勢でよってたかって棒や瓦で打ったり、投げつけたりした。その比丘は遠くの方へ走り逃げ、そこで大声を張り上げ「私はあなた方をいやしめたり、軽んずることはできない。何故なら あなた方は皆仏様になられる方々だからです。」と言った。
この比丘はいつでもこの言葉を叫ぶので、人々はこの比丘を「常不軽」と名をつけた。

このお経は一切の人々に救いを与えてくださるものです。寒さで震えた者が火を得るように、子供が母を見るように、渡りに船のように、暗闇で灯りを得たように、
法華経もそれらと同じように、救いの道を明かしてくれるものである。
10
法師守護の図


彫刻 加藤寅之助
私たちもまた、法華経を読誦し、受持する者を守護し、その者の衰えや患いを除きたい思う。もしも法師の短所を伺い求める者がいても、その依りどころを得ないようにさせよう。
柴又帝釈天に関わった彫刻師
明治30年頃から大正・昭和初期にかけて、柴又帝釈天の各お堂にはたくさんの彫刻が施されました。
刻銘を元に関わった彫刻師を簡単にまとめると下記のようになります。

【二天門】
 《表》加藤勘造 
 《裏》高石信明(四代伊八・信明)

【帝釈堂】
  《拝殿》  加藤寅之助(勘造氏の息子)
  《胴羽目彫刻》 下記の「法華経説話」彫刻参照 
  《上記以外》  高石仙蔵(四代伊八・信明)

【水舎】
  石川信光、後藤南汀、後藤橘正義、木嶋正夫、木嶋 江運
  池田信之、横谷光一 、天堅吉正、山本 一芳、山本栄雲
  荒川陶光、山田俊光、大塚信孝

【渡り廊下】
  加藤正春(勘造氏の孫)、平田角大夫

【釈迦堂】
  刻銘無しだが五代伊八・高石信月

【祖師堂】
  刻銘が削除されて不明だが、常州後藤流の構図と言われています。
  専門家が構図や年代、証言から推測しています。

   後藤桂林  高沢介之助
参考資料
『波の伊八』 長谷川 治一編・著
『江戸川図志』 山本鉱太郎著
『庶民仏教と法華信仰』 望月良晃著(日翔上人・御前様)
『法華経を読みとく』 平川 彰 望月 良晃著
『教報 柴又』柴又帝釈天題経寺 機関誌