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葛飾柴又とは
葛飾柴又

柴又帝釈天参道
古代に登場する『葛飾柴又』
葛飾の「郷土と天文の博物館」の方に聞いた話では
文献として歴史上初めて「葛飾柴又」が登場するのは西暦721年(奈良時代)だそうです。

東大寺正倉院に保管されていた「養老4年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に葛飾郡大嶋郷は住民1191人とあり、甲和、仲村、嶋俣という三つの集落で構成されていました。
その中で「嶋俣(しままた)」とされているのが「柴又から水元の辺り」とされています。
「しままた」から「しばまた」へ変わりましたが、こういうのを地名の転訛というそうです。

その葛飾の戸籍で面白いのは、住民に「男孔王部刀良(おとこあなほべの、とら)」つまりトラさんがおり、他にも全部で7人のトラさんが記名され、更には女性に「佐久良」つまりサクラもいたそうです。
1300年以上前から葛飾柴又は「トラ、サクラの町」だったようです。
『葛飾柴又』が鎌倉~江戸時代にも登場
次に葛飾柴又が歴史に出てくるのは鎌倉時代で『保暦間記』(書かれたのは14世紀))に「頼朝の軍勢が須田(墨田)、八切(矢切)を渡って…」とあるようです。

この時代にも『吾妻鏡』という史料に面白い話があります。
「葛西の柴又に住んでいた平次三郎という相撲の達人がおり、その話を聞いた頼朝は鎌倉まで呼びよせ、御前で相撲を取らせた」そうです。

続いて葛飾柴又の登場は大分飛び、江戸時代寛永年間(1629)、葛飾柴又の地に経栄山題経寺(柴又帝釈天)が開山します。
開山後約百年経った頃、永年所在が不明だった御本尊の発見が切っ掛けで『柴又帝釈天 題経寺』は江戸の人々から注目されます。
この辺りの経緯については柴又帝釈天のご案内でお読みください
近代の葛飾柴又
明治の末期から大正にかけて葛飾柴又は保養地として栄え、柴又帝釈天の縁日には「金町ー柴又」間を人車鉄道で一万人も柴又へ運んだそうです。
当時の柴又は 交通事情から考えると、今の東京人にとっての熱海のような ”少し足をのばしてノンビリしよう”という場所だったのではないでしょうか。
柴又帝釈天の渡り廊下にも人車鉄道が彫られています

現在の柴又帝釈天参道の「柴又神明会」という商店街組織もこの時期に発足しました(当時の名称は題経寺共栄会)。上の写真に街灯らしきものも写っているので商店街の存在を感じます。
多少店舗の入れ替わりがありますが、道の形状はもちろん、街並みなど現在の柴又帝釈天参道と変わりありません。
当時の地図を見ると川千家、川甚髙木屋立花屋ゑびす家、富士見屋米店…など今と変わらぬ店名を見付けることができます。

江戸の頃から葛飾柴又の近隣では「葛西米」という米が採れたので、煎餅、お団子店が多くあります。
また柴又には今でも沢山の畑があり「葛飾柴又の元気野菜」というブランド野菜もあるくらいなので、佃煮や漬け物屋も多くあります。
また、江戸川から獲れたうなぎ、こい等を料理する川魚料理店も柴又には多くあります。

このように明治末から大正にかけて帝釈天参道が形作られ、その後も昭和、戦後と続き、柴又帝釈天の門前参道の各店は帝釈様の「信者」さんを相手にに商売をしておりました。
その後 御存知 映画「男はつらいよ(1969)」が始まり、人気作としてシリーズ化され、「葛飾柴又」「柴又帝釈天参道」はあっという間に「信仰の町」から「観光地」へと大きく変わっていきました。

明治生まれの私の祖父(先々代)などは「葛飾柴又、特にこの帝釈天参道は信仰の町であり、この帝釈天参道は帝釈天を守り、帝釈天の信者さんにお食事やお土産、仏具を提供することを生業としている、なのに若い連中は映画、TVなんかに浮かれて…」と言っておりました。
そうは言っても もし「寅さん」が無ければ現在の柴又帝釈天参道の賑わいは無く「下町情緒」も維持できず寂れた参道、商店街になっていたはずです。
柴又帝釈天参道で商売をする我々は『柴又帝釈天』『寅さん』に感謝し、帝釈天参道の持つ情緒や町並みを守って行きたいと思います。
            
次に 柴又の名物、お土産をご紹介します。
解説
帝釈人車軌道(明治時代)
葛飾柴又の人車鉄道とは明治33年に地元の有志によって柴又帝釈天の参詣客を対象に設立されました。屋根付きのトロッコ車輛に客を乗せ人夫が押すという正に人力車両。
60台保有し常磐線金町駅⇔柴又間を多いときには1万人運んだそうです。正式な法人名は「帝釈人車軌道株式会社」。
大正2年に京成電鉄が路線を延長したので無くなりました。

大正の柴又帝釈天参道
柴又帝釈天の二天門の前に店舗があり、街灯もあります。
商店街の存在が感じられる写真です。

「寅さん」以前の帝釈天参道(昭和32年)
この頃はコンクリート舗装です。石畳だと下駄が引っ掛かり転びやすいのでかえたそうです。平成元年に参道商店街が戦前と同じように御影石を敷きました。その際電柱も地中化し、現在の景観になりました。