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川千家の歴史
東京の下町の情緒を残し、映画「男はつらいよ」の 寅さんのふるさととしても有名な葛飾柴又。
そんな柴又で、鰻(うなぎ)・鯉(こい)・川魚といえば 川千家、と親しまれ続けて250年。
創業以来、変わらぬ味を守り続けています。
そんな柴又で、鰻(うなぎ)・鯉(こい)・川魚といえば 川千家、と親しまれ続けて250年。
創業以来、変わらぬ味を守り続けています。
川千家のそもそもの始まりは、安永年間(1770年代)です。
安永7年(1778)庚申の日に題経寺で帝釈天王の板本尊(日蓮上人が帝釈天を板に彫った拓本)が発見されて参拝客が増えるにつれ、 茶店がなく不便な柴又では農夫婦達が副業で川魚料理の茶店を開き、川千家もその一つでした。
その後帝釈天題経寺がさらに有名になったのは、冷害に見舞われた大飢饉、さらに大洪水と続いた天明年間(1783-1786)で、 題経寺九世の日敬上人が、帝釈天の板本尊を背中にくくり江戸市中をまわり、多くの人々に不思議なご利益を授けたことによります。 それが噂となって帝釈天信仰が庚申信仰と相まって広まり、多くの参詣客が柴又を訪れるようになりました。
やがて日帰りの参拝は辛いという声から茶店は宿初施設を持つようになり矢切の渡し付近は宿場の賑わいとなったのです。
明治33年には常磐線金町駅から柴又までレールの上に箱車を置きお客を乗せる人車が走るようになり、参道が通ったのを機に、 5代目の時代に川べりから現在の川千家の場所に移転しました。 柴又で川魚といえば川千家と、地元の人々や参詣客に親しまれ続け、お蔭様で現在は10代目を数えています。
安永7年(1778)庚申の日に題経寺で帝釈天王の板本尊(日蓮上人が帝釈天を板に彫った拓本)が発見されて参拝客が増えるにつれ、 茶店がなく不便な柴又では農夫婦達が副業で川魚料理の茶店を開き、川千家もその一つでした。
その後帝釈天題経寺がさらに有名になったのは、冷害に見舞われた大飢饉、さらに大洪水と続いた天明年間(1783-1786)で、 題経寺九世の日敬上人が、帝釈天の板本尊を背中にくくり江戸市中をまわり、多くの人々に不思議なご利益を授けたことによります。 それが噂となって帝釈天信仰が庚申信仰と相まって広まり、多くの参詣客が柴又を訪れるようになりました。
やがて日帰りの参拝は辛いという声から茶店は宿初施設を持つようになり矢切の渡し付近は宿場の賑わいとなったのです。
明治33年には常磐線金町駅から柴又までレールの上に箱車を置きお客を乗せる人車が走るようになり、参道が通ったのを機に、 5代目の時代に川べりから現在の川千家の場所に移転しました。 柴又で川魚といえば川千家と、地元の人々や参詣客に親しまれ続け、お蔭様で現在は10代目を数えています。
掲載されている書籍(現在販売されている書籍のみ。雑誌は除く)
『東京 五つ星の鰻と天麩羅』(見田 盛夫 東京書籍)
『東京 味な老舗』(東京新聞出版局)
『東京 味な老舗100選』(国際地学協会)
『J.C.オカザワの昼めしを食べる ~東京のベストランチ二百選 』(晶文社)
『東京 味な老舗』(東京新聞出版局)
『東京 味な老舗100選』(国際地学協会)
『J.C.オカザワの昼めしを食べる ~東京のベストランチ二百選 』(晶文社)
明治末期の川千家
昭和29年 高松宮殿下来訪時
淡島千景と加藤大介獅子文六作「大番」の映画化で
川千家の座敷が撮影に
川千家の座敷が撮影に
昭和30年 撮影風景
撮影風景
市川猿之助さんと先々代社長の記念撮影
市川猿之助さんが当店の鯉の間でお食事しています
「男はつらいよ」撮影風景
元横綱・曙太郎さんと9代目社長(現会長)
山田洋次監督と「こち亀」の秋元治先生
お食事しながらの対談
お食事しながらの対談